我が家の介護日誌 第十一章
精神的 疲れ
浅川太陽光発電所
所長 浅川 初男
第十章までは、順調な回復を示していた母であったのですが、私の入院時に気になる言動がありました。当初は、笑い事と捉えていましたが、そこまで執着するとは思っておりませんでした。私の入院時に、母の食事を誰が用意するのか、その間誰が面倒見るのか、等を気にしていた母が、私の退院後、食事の時間をとても気にするようになり、常に食事を一緒にするように強要します。
かわいい、おばあちゃんになればいいのに。
特に驚くのは、その時間です。退院後の季節は、秋から冬へと、お日さまは、つるべ落としに沈みます。早い時には、午後4時半に沈みます。すると、母は夕飯だと騒ぎます。しかたがないので、夕飯の準備をし、支度を整えて、まだ早いので、残りの仕事を片付けようと移動して、しばらくすると、呼び出しのベルが鳴ります。何事かと、慌てて、母の元に急ぐと「何故一緒に食事をしない」と、わめき出します。「まだ食事には早いし、仕事をする」と言うと「家に一緒にいても、食事を一緒に出来ないほど忙しいのか」と愚図ります。最初は、しかたがない、1日家の中で過ごす母も、寂しいのであろうと従っていたところ、天候にもよりますが、朝食に始まり、昼食、夕食と、常に呼び出しベルを鳴らすようになって行きました。(普段は、緊急用の呼び出しベル)
特に、私の場合は、夕刻になり、電話等で日程調節を行うので、母の夕食時間と重なる事が多いので、メールだけで仕事を済ませる事もありますが、電話により意思の確認をする事が大切である事を、叩き込まれた時代の人間は、やはり最後の確認は電話でとなります。複数の電話の相手をしていると、必ず母からの呼び出しベルが鳴り、仕事の手を休めて母に対応、一段落したならば食事に行く事を伝えて、仕事をしていると、また呼び出しが、こんな事が度々ありましたが、仕事をしているので待つようにと諭します。
しばらくは、このようなやり取りが数日あり、落着いたかに見えましたが、天候により、日没が早くなるとその傾向が現れ、その都度、私との口論となります。
母曰く『一緒の敷地にいるのだから、ご飯を一緒に食べるのは当たり前の事だ!!』
『年老いた母をほったらかしにして、ご飯を一緒に食べれないほど大事な仕事か!! 親不孝者』である。『ご飯も一緒に食べれない、そうやって邪魔者扱いをするのか』、『早く死ねばいいのだろ』、『よその人に聞いてみろ、そんな親不孝者はいない』と言う始末。
弁解ではありませんが、食事の用意は全てしてあり、テーブルに出すだけの状態にしてあるのですが『テーブルに運んでおいてやった』、『用意してやったのに何故、ご飯にしない』、『母と一緒に食事を摂れないほど、それほど大事な電話か』とまくしたてる始末、このような事が、今年になってから特に、ひどくなりました。
(写真 0834)
食事の次は、私の仕事の行動です。
何処に出かけるのも母に一言、言わなければ騒ぎ出す始末。
最も困ったのは、自宅を訪ねてくる仕事関係の方です。
何処の誰から始まり、何時までいるのか、何をしているのか、等と等、用件が終わり、帰られた後から母の質問攻めです。
母には関係のない方なので、何でそんな事を聞くのかと訪ねると『聞いておかなければ、誰かが来た時に話が出来ない』などと言います。
誰が来るのかと、訪ねると『誰か(多分、母の知り合いか、用事のある人)が、来た時に説明できない』と言います。我が家を年に数回訪ねてくる母の知り合いに?、我が家を訪ねてくる私の関係者(年に数回、有るか無いか)となります。
この頃、説明がつかない言動が多々ありましたが、寂しいのだろうと、気にはかけていたのですが、日常の範囲以内と思っておりました。
偶然、私の友人に、介護ヘルパーを職業にしている方があり、雑談的に時々相談すると思わぬ回答が帰ってまいりました。
『第三者から見ると、始まったのかなと』指摘されました。
元々、自分中心で過ごしてきた家族と言う集団が、独り立ちして、夫婦二人になった頃から、亡くなった父が、母の言葉で指図されていたのは知っていましたが、これほどひどいとは思いませんでした。
父が亡くなり、同居をするには、時間帯が合わないので、別棟にそれぞれ住んでいるのですが、食事くらいは一緒にと思っていた事が、これほど苦痛になるとは思いませんでした。母の思った時間に食事をしないと、すぐに機嫌を損ね自分で、血圧を上げてしまい、救急車を呼ぶこと、数回、医師に相談して、血圧の上昇を防ぐ薬を処方していただくが、あまり効き目はありませんでした。
しかし、退院後、歩行器で家の中を歩いていた母が、ここ2年で、急速に回復
それと同時に、血圧の上昇が激しくなり、医師と相談の上、新薬の投与を実施し、結果を見たところ、血圧の上昇を抑える事につながっているようだが、検診の度に医師からは、これ以上、薬を増やす事は出来ません。自己管理をお願い致します。
と言われていたので、全ての食事を私が作り、塩分調整を行い、ここ1年以上は、救急搬送は無く、今年は、うまく過ごせそうかと、思った昨年。
(写真 0006)
私の緊急入院、手術、療養と、1年を通して、ほとんど、農家らしい農作業をせず、母の食事管理を中心に過ごしました。新年度になり、私の仕事量が増えるにしたがい、私との食事の時間が、ずれる様になり、それと相互して母の機嫌は悪くなり、私の仕事先への行動も気にかける様になり
『親が子どもの行動を気にかけるのは当たり前だ』
『何処に何をしに行く』『親と食事も一緒に取れないのか、親不孝者』等の言動が激しくなり、仕事とは、そうゆう物だと諭すのですが、納得がゆかず、
『ちゃんとした仕事に就け』が口癖となって行きました。
月最低でも2回以上通院をしなくてはならない母を、仕事に支障がない職業と言う事で自営を選んだのですが、母には納得がゆかず、ことあるごとに「ぶつかり」言い争いの種にする様になってきましたが、何とかなだめ、落着かせ、普段の生活状態を保っておりました時に限って、予期せぬことが起こる物です。
(写真 0238)
仕事の関係上、時間に不規則な場合があり、帰宅が遅くなった時の事、
早朝に帰宅したので、睡眠を取っていたところ、部屋のドアを叩く音
何事かと、思って飛び起きドアを開けるとそこに母が『いくら呼んでも返事が無いので、死んでいるかと思った』?部屋で横になったとたん寝ていた様です。
呼び出しのベルは鳴ったようですが、爆睡していた私には聞こえず、そのまま寝ていたのでした。意識がハッキリしない状態でドアを開けると、母が怒鳴りまくっていました。母がここまで歩けるとは俄に信じられない、寝起きの為、理解できないでいると、母の顔が真っ赤になって、相当血圧が上がっている様子。何とかなだめ、母屋まで送り届けて、杖があると30mは歩けるのだと感心しました。
今年になって、母の行動半径が広くなったのと、日常の生活には、ほとんど困らない程度まで、歩行可能になったので、介護認定でも軽い認定になったので、母の希望もあり、週一回の訪問看護を二週間に一度に変更しました。
考えてみれば、この頃から、私の行動と仕事に口を出すようになってきました。
ともすれば、私が部屋に居て、事務処理をしていると『死んでいるかと思った』等と言って何かにつけて、所在を確認するようになり、トイレに居て呼び出しに応えられないでいると、何処にいるのか、何をしていたのか等と、いろいろ文句をいいながら、自分の思い通りに成らないと、激しく、まくしたてるしまつ。何が母をこのような行動にさせるのかと考える日々が続く。
このような行動がひどくなると、たまらず、妹のところに電話を入れ、現状報告と、愚痴の連発です。妹は、そんな愚痴を聞く事しか出来ないとして、私からの長電話につきあってくれます。相談できる相手がいる事は大変助かります。
思いもよらぬ行動
母は、訪問看護師の付き添いを得て、筋力低下を防ぐ為に散歩をしていただいておりますが、ここ2年は距離も安定し、筋力低下も当初より軽減され、行動が軽快になったように思えますが、入浴時には浴槽に入る為に段差の無い浴槽を跨ぐのですが、その際にはよくバランスを崩すので付き添いが必要になり、入浴中は、私が付き添い、転倒防止していますが、そんな母が思わぬ行動を!!
当初は、ここまで回復したのかと、笑い話で済ましていましたが、今考えるとこれが事の始まりだったのかと、御近所さんと話す事になろうとは (--_--)
昨年の秋かな? 仕事の関係で打ち合わせ会議があるので、母に会議に出かけるので帰宅時間は分からないので、食事を1人で済ませるようにと念をおして、出かけたならば、出かけて4時間後くらいに、御近所さんから携帯に電話!!
何事かと思って、電話にでたならば、母の近況報告、何で、?
救急車を呼んで入院するほどの事は無いが、とにかく知らせてくれと強引に連絡をするように御近所さんに頼みにいったらしい。御近所さんは、あわてて連絡を取ってくれたのだが、よく見ると、たいした病状ではなく、ほのかに、顔が赤くなった程度だったので、悩みながら連絡をくれたとのこと、後日、母の行動について、理解をいただく為に説明に行き、今後もあり得ることを理解していただく。「後で母から話を聞くと、化粧品を使ったところ、顔が、ほのかに熱くなり、顔が赤みを帯びたので、理由が分からず連絡したとのこと」
(普段、使用したことの無い、古い化粧品をつけた為と判明)
(写真 0866)
この後しばらくは無かったのですが、またまた会議中に電話 !!
『食事に戻ってこないと』御近所さんからの連絡、急な会議で直接仕事先から家に戻らず会議に出ていたので、母のこと忘れていました。
仕事に行ってまでも、追いかけてくるようになってしまったのかと ふぅ〜
御近所さん曰く『会議中だよね』母の形相がすごいので、押し切られて電話をしましたとのこと、何を言ってもこの行動時には落着かなくなる母である。
後日、またまた、お詫びに行き、経緯をお話しして、お礼をして、すみませんがお願いします。と御近所さんへ。
このような行動が、三回ほど続き、落着いたかに見えた矢先。
妹からの母への電話
このようなことがあり、妹に連絡をして、たまには母の電話相手をしてくれるように頼んだのです、妹は母に電話をして、近況報告や家族のこと等を母に伝えて、母のもとには、連休を利用して行けたらいいね、くらいの話をしたところ、母から私に連休に妹たちが来ると言う話にすり替わります。
そんな電話があってしばらくしてから、母の態度が急に変化して行きます。
お前は、何で働きに行かない、いつも家にいる、会議ばかりでかけて行く、働きに行け。と言い始めました。何で急に、自営業の私に会社勤めをするように言うのか不思議になり、妹と話したところ、妹のご主人が定年後、再就職した話を母にしたとのこと、原因判明です。そのことで私に、とばっちりが、きたのです。80過ぎの母と暮らしていると、思わぬところから思いもよらぬ行動を誘発するものだと思いました。
春になり、暖かな季節の到来とともに、草木も芽吹き、農作業時期となりましたが、私の体調管理がままならず、思うように農作業が進展していないと、私の留守に、庭先で土いじり、母の入浴時に湯船に溜まる土を見てびっくり、何とか諭すも、一向に土いじりのやむ気配なし、せっかく蒔いておいたルピナスが、また今年も餌食になり、ひっくり返され一カ所にまとめてありました。
母曰く、暖かかったので、庭の草取りをしたとのこと、今年もやられました。
年度きりかえ
年度の切り替えで、会議があるので出かけることを母に伝え、出かけたので、大丈夫だろうと、時間の許す限り、会議を続行して気がついたならば、午前様、家に戻って、また会議場に来るのは、面倒なので、仮眠室で仮眠を取り、朝から会議をしていると、御近所さんから電話「会議中だよね」母は、会議に出かけたきり、朝食に戻らない、どこかで死んでいるのでは、と御近所さん家を訪問、雨が降る中をである。その形相に御近所さん、驚いての電話でした。
帰宅後、又また御近所さん宅を訪問して、お手数をかけましたと、ご訪問。
雨の中を、60m転ばなかったからよかったのを、帰りは御近所さんが一緒に歩行を助けて帰宅したとのこと。今期何回目だろうと御近所さんとの談。
2日後、家の前で畑仕事をして、地区役員の打ち合わせをと、お昼近くに御近所さんが帰宅したのを確認して、母が家にいるのを確認し訪問して、打ち合わせを終えて、帰宅途中で、別の御近所さんからお声がけ「お母さんから電話があったよ」え、電話?
ここ数年、電話をかけることができないと、電話の操作をしなかった母が電話、急いで家に戻ると、母がいません。家中を見て回り、もしやと思い、いつもの御近所さん宅を大急ぎで訪ねると、そこに母が『お昼になっているのに戻らない』と御近所さんに訴えていました。正午を30分過ぎての大騒ぎです。またかと、ここ数日の母の行動は危機しに勝る物があります。
このままでは、困るので、母に今回は、きつく、言い聞かせました。
逆効果にならぬことを期待しましたが、数日間は、私に反抗して拗ねていましたが、訪問看護の看護師さんとお話をしたので、その日を境に快方へと向かいましたが、思わぬ結果が。
今日は、大根があったので、焚いてみた、え〜?、確かに大根を畑から持ってきたが、キッチンに行ってみると、大鍋一つ大根が、誰が食べる〜の大鍋一つ、母の手料理は続きます。大鍋一つの大根が無くなったならば、今度は、うどんが食べたいと、私の留守中に、冷蔵庫にストックし合ったうどん2玉(4食)を使い、残りのみそ汁と一緒に味つけたらしく、まれなる味付けに〜!!!。
暖かくなり、家の中で時間を持て余して、何かをしたくてたまらない様子。
あと少しで、うどんも無くなるので、明日当たりは、みそ汁作れるかもです。
春とはいえ、朝晩は5度以下、日中でも15度にとどかない今週であったからよいもの、もう少し暖かければ、大量の母の料理は全て痛んでしまいます。
どうして、大量に料理を作るのかと母に訪ねると
母曰く、『作り方が分からない』『作る量がわからない』『鍋が空いていたから』などと言っています。料理の品数が少なくなると、なにかをしでかす母です。
(写真 0867)
翌々考えてみると、昨年もこの時期、こんな事があったような!!
御近所さんの方がしっかり覚えておられました。
歳を重ねるごとに、ある一定年齢から子供帰りが始まるとは聞いておりましたが、母も、80歳を過ぎ、そんな歳になったのかと、ふと思う今日この頃です。
私の方が、母に振り回され精神的に疲れ、考えがまとまらない日々です。
母に言わせると、息子や娘は母の言うことを聞かない物は、親不孝者で、親に迷惑をかけるだけで、とのこと、とにかく母の言うことを聞け、です。
小さな子供が、だだをこねて、それでもダメなら動かない、拗ねたり、脅したり、子供だとかわいいのですが、自分の感情だけで、それらの行動を起こす高齢者介護、なかなか精神的に疲れる物です。
ストレスと、病状変化介護の傍ら、自分自身の病気と、うまく付き合って行く方法。 まずはストレスをためないことだと、今回は思い知りました。
今回の介護日誌には、母の行動の変化を書いてまいりましたが、その行動変化を理解できない為に、私自身のストレス増加につながり、結果として、効果覿面、大出血へ、6時間後には出血は収まりましたが、病状は的確に再発していることを示しています。介護する側とされる側ともにストレスは溜まりますが、それを如何に、癒すか、問題が出てきている。高齢者の介護に疲れ、自ら最後の時を自ら選ぶ新聞記事がこの頃多くなってきている。
80代の介護をしている50代や60代の親族による介護疲れによる事件が多すぎです。核家族化が進んだ結果、年老いた家族を複数の家族で支える姿が無くなり、1人が1人を看る時代になり、その心労は耐え難い物になっている。
それらの結果として、不幸な事件へと発展して行くことになっているのではないかと思います。ここにも所得格差による皺寄せが生じており、最後の時間を迎え、その後の処理までも、お金次第となり、何やら世知辛い時代へと踏み出しているのに、皆、見ぬふりをしている、いつか自分に降り掛かってくる姿がそこにあるのに、対岸の火事、知ろうともしないでいるのではないのだろうか。
知るのが怖くて、我が身に置き換えることすらも出来ないほど、他人事として関わりを拒む姿勢が、このような悲惨な事件を誘発していると考えてしまう。
核家族化と個人主義、どちらも、日本の風土が育てた家族構成と違い、共同体で生活をする日本古来の民族的家族構成が、新しい形になったのか、それとも、退化して行ったのか、その過程が現在の家族構成なのか。
このような、過程が見えてしまうと、将来への展望は失われてしまいそうになっている。でもそれが見えているから。
ビジネス的には、ここ職業としての環境が存在しているので、この問題を解決できる(緩和できる)しくみを作りあげると、新しい職種になるのかな。
この介護問題、良い形で解決策が見いだされると良いのですが。
(写真 0868)
今回は、愚痴と、疲労感を披露することにました。
これで少しは、ストレス解消かな・・・・・・・・・・・でわまた。