病院と我が家を往復する毎日を続けながら、通院途中に古き良き知人の喫茶店があるのを思い出しました。帰り道のインターバルに訪ねることにしました。
20年ぶりに訪れたお店。 雰囲気が多少変わっていましたが、懐かしい顔がそこに。
20年の歳月を過ぎても同じ雰囲気で、私を迎えてくれました。
驚いたことに、私が別荘の知人といつも「お茶たいむ」する、コーヒーの銘柄がそこに!!「ハワイコナ」この香りに引かれて、古き良き知人のお店によったのかもしれません。 「山梨で初めてピッザを提供したお店なのです」
当時は、清里からオーダーを入れ、深夜の夜道をナナハンで自宅まで宅配ピッザ、我が家で待っていた知人たちが、その美味しさに驚いたのを覚えています。
今もその味は健在で、前もって予約をしてからのシステムも健在。
母も順調に快復して来たので、見舞いの回数も、2日に一回になり、寄り道する場所ができたので、古き良き知人のお店「らんぶる」定期的に母が入院中は立ち寄らせていただきました。(私の、精神的リハビリをかねて)
今まで激痛にみまわれていた母が、まるで別人のように順調に快復してくるので、私は大急ぎで退院に備えて、介護用品の確保
電動ベッドに、食事台、ベッドの転落防止策、室内歩行器、室外歩行器、等々介護支援の制度を利用して、我が家で使用出来るものとすでに用意してある物をどのようにミックスするか考えて、母の退院までに準備を完全に終えるように手配をしました。
室内歩行器に関してですが、介護用品のリース会社の方に室内用歩行器のリースをお願いしたところ、室内で歩行器を使用できるスペースがあるのか心配で我が家を実際に訪れて、確認したい等の連絡が入り、大急ぎで室内を片付けて介護用品のベッドと歩行器が使用できるスペースを確保しました。
(写真 2069・2070 )入院中の母は、退院に向けてリハビリを続行して、室内歩行器を使用して歩行訓練を「看護師さんに支えられながら始めた」と病室を訪れたら報告。
それと、入院してから初めて入浴をしたことなど等、2日に一回程度で病室を見にゆくと、母からの連絡事項や会話が多いので、瞬く間に時間が過ぎて行き、入院から手術、そして、早く家に帰りたいなどの気持ちから、自分でも機能回復訓練を地道にしていることがわかります。母の決意は、入院当初からハッキリしており、入院中のテレビやラジオの使用を止めて、リハビリするからと言うもの。確かに母は、入院してからの一周間分の食事メニューを看護師さんに欲しいと要望し、管理栄養士さんから看護師さんにそして母、最後に私に渡し、帰宅後の母の食事の参考にしなさいと、こんなと、患者さんが要求するのは余りないことだと思いますが、母にはその必要があるのです。入院して手術が成功してまもなく、母の自然排便が出来なくなり、看護師さんに処置をしていただき、排便をなんとか済ませたと後で教えてもらったのです。昨年の11月以降いつも横になりながらの生活のために、運動不足になり普段から便秘気味の母は、常に下剤を準備して、自然排便を助けていたものですから、入院後は下剤の使用をしていなかったのと、手術後の管理から下剤を使用していなかったので、看護師さんとはすでに確認済みで、予測はしていたのですがやはり便秘になってしまったのかと思いました。かなりのものだったらしく、看護師さんにかき出してもらったとのこと、いつもながら、看護師さんの仕事には頭の下がる思いです。ただただ感謝いたします。歳を重ねてからの便秘は生命を危険にさらし、腸閉塞や肝機能障害を引き起こし非常に危険なので、食事には注意をしていたのですが、やはり環境が違ったことから水分を思っていた以上に摂取していなかったのかもしれません。そんなことからの食事メニュー手配でした。便秘解消のために母の食事の野菜量が、他の患者さんより多くなったのも便秘解消の為に食物繊維と水分補給が中心で、消化吸収の良い物になって行きそれからは、退院するまで便秘になることはありませんでした。
「看護体制と看護姿勢」
母が病気になる前は、我が家では母も私も、食事だけは一緒に摂っていましたが、それぞれの別棟に暮らし、それぞれが自分のペース(時間配分)で暮らす習慣になっていたので、出来ることは全て自分でするが我が家の規則みたいなものになっていました。母が体調を崩し、自分の身の回りの世話が出来なくなっても、私としては、全ての量が二人分になった程度と覚悟を決めて、介護に馴染んで行きましたが、突然介護が必要になった場合は、介護生活に馴染むまで、多くの葛藤があり、リラックス介護までの道のりはかなりの、いばらの道のりになると思います。また、母の姿勢も、介護が必要になっても、自分で、できることは、たとえ体が不自由になってもできる限り、自分で自分のことはしたいとハッキリとした意識があり、介護生活の途中においては、このことにより、病状の悪化をまねく要因になったり、良いこともあったり、悪いこともあったりで、何回かぶつかるうちに、対処方法が見つかりますが、ここまで来るまでには、親子だからかしれませんが、毒舌合戦や無視、大声、私の生活態度非難等々、幸いに、物が飛び交うことは我が家ではありませんでした。
体の自由が全く利かない場合は、介護する人にとって、言葉による暴力は最大の敵であり、介護姿勢の意志を挫くものになることも体験いたしました。
親子でさえ、こんな状態なのだから、お嫁さんや看護師さん、ヘルパーさんと血縁関係が無くなるのにつれて、看護体制を整えるのには、強い意志と精神的報酬と報酬が必要だろうと思います。家族だから当たり前の介護姿勢から、患者を含め、患者家族や直接介護にあたる家族を支援する為に介護体制を整えて来たはずですが、これからは、介護にたずさわる人と患者を中心に支援する制度の充実が強く望まれるのでないかと思いました。
根本は、親が子を育てるように、子がその逆に、年老いた親の暮らしやすい環境を作れるかになってくると思います。独立主義も良いけれど、独立主義と言って、自分一人で何でも出来ると思っている人は、結局、人をたよりに生きていることがわかります。独立してしまうと、全て自分ですることになり、年老いた場合は、自分で生活が出来なくなると、餓死や孤独死となるので、ある程度密接な友達や友人があればそれらを防ぐことができます。少子高齢化社会となった今は、家族のあり方を考え直さないと、若い世代は、年老いた世代を看取ることも出来ない環境にしてしまう恐れがあることを実感しました。
病棟生活
母の順調な快復に、看護する方とも、少しずつコミュニケーションが確立され、信頼関係が生まれてくると、思わぬ効果を生むことがあります。母の隣に越して来た方、何をするのにも看護師の支援を頼んでいましたが、母と同室になってから、少しずつ自分で物事に挑戦するようになったと、母から聞かされました。当初病室に入って来たときは、車椅子で看護師さんに手伝ってもらいベッドに横になったのを見ていましたが、一人になると自分で体を動かしているので、何の病気だろうと不思議に思いました。後で重度の糖尿病で苦しんでいることを知り、患者の病気への姿勢が、病状に大きく影響することを改めて知ることができ、早く家に帰りたいが為にリハビリに励む母と同室になったことで、自分からトイレに行くようになり、心境の変化があったのではないかと母が教えてくれました。母のリハビリは、病棟の廊下を歩行器で歩くのが主なリハビリで、私が病室を訪れたときも、病室に姿がなく驚いていると、私の後ろから声が、「散歩に行って来た」「逃げたりは出来ない」「ここにいると富士山が見えない」「八ヶ岳が見えない」と矢継ぎ早に、方向感覚がわからなくなり、基準となる景色を見たいらしく、病室のお隣さんの窓から八ヶ岳方向を見させてもらうが、はるか彼方に雲に霞んでいるので見えません。次は富士山を探しにデイルームに移動、富士山を見るなり「大きい。うちの何倍あるかな、でも裾野が見えないし、頭だけ見えても実感が湧かない」と不満を少々。
そんな会話のひとこまから
母が初めて、病院で入浴をしてから、母の人気が女性看護師さんの間で上昇していることを知りました。母の体に軽く接する女性看護師さん。
理由 女性ならでは、の、身体に関するものでした。
母は、私たち二人を育てましたが、赤ちゃんの時に母乳が中々でずに、苦労したので、母の胸についての話はいつも苦労話の材料になっていました。
「この年になると、あっても何の役にも立たないし、子育ての時にも余りミルクがでなかったので、苦労ばかりさせられた」と言っていた胸が、人気者に。
私も差して気にしたこともなかったのですが、母の性格上明るく話すしぐさで母に教わった、陥没乳(乳首が陥没している)のため、私たちが授乳時に中々飲めずに苦労した等の話までは理解していましたが、母の体の自由が利かなくなってからは、私が母を入浴させていましたが、胸の形までは、全く気が付きませんでした。そこにある母の胸を洗っていただけですが、母を入浴させてくれた看護の方は、78歳の女性の胸には見えなかったようです。確かにそう言われて、胸の形を比べると三十代から四十代の胸の形以上かな、試しにサイト見物で胸のあるところで比べてみたならば、垂れ下がった20代の胸よりはきれいで、形もよく、胸の色も黒くなっていないし、肌もきれいだった。
女性看護師さんが興味をいだく理由がわかったような、わからないような、
「ちゃんとそこにいるよ」「ここにいるよ」です。
ちなみに、母は、ブラジャーを着用したことはありません。それなりに大きいのですが、下着でカバーしなくては垂れてしまうような形態もしていません。子育ての時に苦労した胸がこんなところで母に恩返しかな。
母の友達と介護
母の手術の日と、時々訪問してくれる母の友人、家は1キロ以上離れているのですが、どちらも、私たち子供が同級生と言うところから、お付き合いが始まったようです。50年以上の友達です。この二人がさらに付き合いが深まった理由は、同じ頃、同じ病名で同じように病院に係り、一緒に治療に行くようになったことです。今回も、母が入院して初めて、同じ病院に入院していることがわかり、これにも驚かされ、母の友人の病気は重篤であるが、薬物治療と放射線治療が主体であるから、体に無理をしなければ病棟内を自由に散歩でき、担当の医師にも「この病棟で一番重篤な人が一番元気だ」と言われるほど、周りに元気を振りまいていました。二人の名言「同じ病気で、同じ治療を受けていたからと言って、また同じ病院に二人を揃えたものだ、神様もいたずらが好きだな」と言って周囲を笑わせ、病名を告知され、知っている以上「明るく元気にしてなければやってられんわ」と本音も少し、全くと言っていいほど家庭内環境も似ている二人、気が付くと、お互いの家族同士でも何かと連絡できるように、いつの間にかなっていました。
看護人が疲れたとき、電話でお互いに励まし合うことも、しばしばあり、愚痴を言っても始まらないが、男二人、お互い頑張ろうと励まし合う。そんな二人に母たちの名言「お前たちを見ていると、たとえ死んでも、悔いが残るので、死にきれん、だから、しぶとく生きる」です。
どちらの家族も、本人に病名を隠さず告知し、ともに病気に立ち向かい克服して行くのが楽な道と思っています。家の中に入ると常に二人になるので、隠し事の下手な男二人、ともに「母への、思いです」。
私たちに、人生を与えてくれた母、その母に何が出来るかと問われても、私たちは無理をせずに、ともに生きる、を選択し、自宅での介護を選択したのです。
こんな気持ちを植え付けてくれていた母たちに、ともに感謝です。
病棟生活
毎日のリハビリのおかげで、介助者なしで歩行器の散歩が出来るようになると、身だしなみセットが必要に。鏡、くし、くらいは手元になければ行けない。
と、突然言い出して「明日もってこい」と、だだをこねる母、探せば入院セットの中にあるはずだと、言い聞かせても「もってこい」の一点張り。次の日に、持って行くと「そこに置いておけ」「後でつかうから」と素っ気ない。
なんで急に、髪の毛を整えたかったのかわかったのは、次の日、一階下の病棟に居る友人の病室を訪ねたかったからでした。片方の体調がすぐれないと、片方が病室まで訪ねて行くようにまで快復して行きました。
初めての友人の病室訪問は、私が付き添いで行きましたが、次回からは一人でなんとか行ったようなことを言っていました。
院内で、病室を行きき出来るのは、感染症がないからで、母に言って聞かせましたが「大丈夫さよう」と、「おしりにめぐすり」困ったもので、あげくの果てには、病室で各人のお見舞い品で気心の知れた患者同士が秘密のパーティー、食事制限のある患者さんがいなかったからよいものの、注意するように母に言うと「少しぐれは、いいさよー」皆が揃うと珍しいものが、いただけて良かったです。少しは反省して下さい。「食いたい時に、食いたいもんを食うさよー」「おめーに、指し図はされん」です。さすがに隣の食事制限の患者さんには注意してからは、おすそ分けはしなかったようです。
看護師の皆さん、良い子で居る患者さんは少ないようです。食事制限のある患者さんと、食事制限のない患者さんの同室には、とっても注意が必要です。
特にお年を召してくると、自分の経験を他人に押し付ける癖があり、少しくらいならば良い等と言って、他の人に勧める場合があり、看護する側としてなんらかの手当が必要かもしれません。枕の周りに食べ物を隠している場合が多いので、一時期、私も母のベッドの周りや枕の周りを探したことがあります。
また、歳を重ねると匂いがわからなくなってまいります。母の場合も例外ではなく、食べ物が傷んでいてもわからず食することがあり、私も時々被害にあいます。病室にお見舞いで、苺をいただき、冷蔵庫に入れていたのですが、看護師さんが入室と同時に香りに気付き、食べ過ぎには注意して下さいとのやわらかな対応。暖房が効いているのですぐに傷みます。おすそ分けのパレード。
おすそ分けは、患者同士のコミュニケーションにもなりますが、年寄りは強引、患者同士のコミュニケーションがストレスの解消になる場合もあり、一概に患者同士の交流を止めさせるわけにも、一般病棟ではそれなりの問題もあります。
外科的、治療の場合は、食事制限が少なく、機能回復が進みます。
母は、半年以上も横になったまま過ごしてきましたが、手足だけは少しでも動かすようにと、言って聞かせた結果、自分で努力していましたが、手術前の3ヶ月は、全くと言っていいほど下肢は動かせなかったので、見る見るうちに足が細って行き、筋肉がやっと付いている程度まで細くなった気がしました。上半身は少し動かせたので、腕は足のようには細くならず、腕は一回り細くなった程度ですみました。当初は抱きかかえるのも慎重にしましたが、手術手前では、簡単に母を抱きかかえることができるほど痩せてしまっていました。
これは、運動機能の低下により、筋力が衰えた結果で、退院計画書の作成時に、看護師さんから、聞き取りによる自宅の状況調査時に説明があり、長い間寝たきりが続いていたため、筋力低下により歩行が上手にできない場合があるかもしれません。その場合は、歩行が安定するまで退院は伸びることになります。また、退院しても歩行訓練が可能かどうかを判定する為に、自宅の様子を教えて下さい。と質問があり、今までの病院では、退院後の自宅の様子まで看護体制に取り入れて、退院を決定するなどの経験がなかったので、医大の医療に対する取り組みは、治療だけではなく、介護の現場はもとより、退院後の生活環境が治療後の悪化を招かないように、患者の自宅の生活環境を整えてから退院を計画するなどとは考えたこともありませんでした。自宅に戻ってから悪化したのでは、治療した意味が無くなり、医療体制の崩壊につながることを実感しているからこそ、でてきた考え方から、介護システムの充実までが治療医療であるとしたものでしょう。
非常に進歩した考え方で、これからの医療体制はこのようになって行くことが望まれ、実際に導入している山梨医大付属病院のチーム医療体制に驚かされることばかりです。母の退院に向けた我が家の準備状況を看護師さんに説明して、現在は、自前で、自宅の室内に手すりが付けあり、総延長は15mで、トイレ、バス、にも手すりがあります。その他の設備として、車椅子、ポータブルトイレ、レンタルで室内歩行器、室外歩行器、電動ベッド、転落防止策などを用意しています。室内歩行器では15mを自由に移動できるようにしてあります。
(写真 2069・2070・2353)伝えると「退院に向けてそれだけの準備が整っていれば申し分ないでしょう、しかし、入浴はどのようにしますか?」との問いに、私が入浴時には付き添い安全を確保する旨を伝えると、「安心して退院計画書を作成できます。」と返答が帰ってきました。どうやら、退院の日にちが決定しそうです。
さぁー、早く家に帰って洗濯をして、次の日には母の病室に洗濯物を届けねば。
でも驚きます、ここの病院の看護師さんたち、よく働くこと、こんなに働き者だったならば、私がもう少し若ければ、皆まとめてもらいたいです。それにしても、チーム医療の要になる看護師さんたちには、いろんな意味で頭が下がります。皆さんあってのチーム医療です。皆さんの明るさが患者にとって、一番の薬になっているのかもしれませんよ、Dr、はじめ看護師さんたちの笑顔が、とっても優しく見えたこの一週間でした。
母の快復は、皆が驚くほどの早さで、手術後二週間目には、一人で歩行器を使い運動するまでに快復しました。そんなある日、病室を訪ねると母の名前がありません。二人部屋から六人部屋に移動したのだそうです。理由は個室が必要な患者さんがおられたのと、元気になってくると、むづむづと頭を出す、母のワガママが、目覚めて来たようです。明日は、我が家へ帰宅予定です。
退院当日、午後に迎えにゆくと、母は帰り支度バッチリ。
荷物なんか早くから荷造りをしていたようです。20日間ほど我が家を離れ、闘病生活、母は、すごーく長く感じたようです。私には、あっと言う間の20日間、病院と自宅と生活に追われ、自分のことは、久しぶりに再会した知人との会話が唯一の休憩だったような怒濤のような20日間でした。
そんなことを思いながら、母の荷物を車に移動していると、看護師さんが「台車を御使いになりますか」とお声をかけていただきました。私は、そんなに荷物があるわけではないので、手で運びますと答えて軽く会釈。
くー、台車を借りておくべきでした。母の荷物、予想以上に多く、何回か車と病室を往復、これも、メタボ対策と割り切って、汗を拭き拭き、やっとの思いで荷物運び終わり。母を車椅子に、ナースステーションを訪れ御礼をいいながら看護師さんにお別れを。あれーぇ、母の担当の看護師さんたちが見当たりません。母に聞くと、母の退院の日は、ちょうど、お休みに当たっていたので、前もって母は、御礼を言ったそうです。(本当かどうか、疑問が残ります)
担当の看護師さんが退院当日休みになるので、昨日、母に「私は、当日見送りできないけれど、注して療養してください」と病室を訪ねてくれたそうです。
山梨大学医学部付属病院の皆様、入院中は母が大変お世話になりました。
多くの患者さんが皆さんを頼りにています。患者の家族としましては、心より皆様に御礼を申し上げます。
母の友人の病室を訪ね、これから退院するので、帰ってくるのを家でまっている。帰って来たならば一緒にお茶を飲もうと約束をして岐路に。
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