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我が家の介護日誌

第一章(下肢と膝の痛み)

私が、介護日誌を書こうと思ったのは、何かの記録に残して、これからの高齢化時代に対しての取り組み方が何かが隠されているような気持ちから本年(平成20年)から書き始めることにいたしました。

我が家は、母と私の二世帯で同一敷地にそれぞれ住居をかまえ、都会から見ると、まことに恵まれた居住環境にあります。

この、めぐまれた居住環境に変化が見え始めたのが今から三年ほど前。

農作業中に母が、体調の異常を訴えたことに始まりました。

私は、この頃体調不良から数年前に会社勤めを辞めて、療養生活に入り、療養生活によりやっと体調が整いつつあり、軽度の農作業に出るまでに体調が回復して、これから無理せずに安心できる体制で農作業に取り組むようにと計画していたところに、母の体調不良により計画の変更を考えるとともに自身の体調管理と母の体調管理に取り組む結果となりました。

症状と対処

母の最初の症状は、腰が痛い、足が痛い、膝が痛い、と言うものでした。病院で高血圧の治療を受けていましたが、医師に腰痛の症状を詳しく相談せず、湿布薬を処方していただく程度でおりましたが、中々回復せず、症状がじょじょに悪化して行くように感じられたので、体調不良を訴えた年の秋から田んぼでの農作業を止めさせるとともに、春からの農作業への手出しをやめるように言い渡しました。

反抗期

元来、家の中にいるよりは、外に出て体を動かすのが好きな母に対して、腰痛と足に痛みひどくなるので、農作業にくわわることを、やめるようにと言いましたが、従う母ではありません。体の調子が良い時には、私の留守を見計らい隠れて農作業を行ない、さらなる症状の悪化をまねくのに三年とはかかりませんでした。

私を悩ましたのが、農繁期のことです。草が伸びるので、この時期、2週間に一回、草刈りを行なわないと、周囲の農家に迷惑がかかるので、連日朝から夕方まで草刈りに出かけると、私の居ないことを良いことに、せっせと畑の草取りに出かけ行き、昼間私が食事に帰ると何事も無かったかのように装い、私をだますように畑仕事をした結果、いくら通院しても腰の痛みが治らず、悪化して行き、腰痛を外科で治療しても良い結果を得られず、私に隠れての農作業の結果、悪化原因不明でさらなる悪化の一途をたどって行きました。

そんな中私が、昼食のために早めに帰ってくると、畑にいる母を発見したので、すぐに家に戻るように言うと「おまえが草取りをしないから、まわりの人に見られると恥ずかしい」だから草取りをしている、感謝しろとのこと。これでは、腰痛が良くなることはなく、悪化する症状に納得したしだいです。

後でわかったことですが、体調不良を訴えた年の秋に、私に隠れて田んぼの草刈りを行ない、用水路にはまったことを田んぼの周りで、農作業をしていた近くの方から知らされて、驚き、母を叱るように農作業をやめるように言いました。でも母の言い分は
「おまえがやる分を少しでも減らそうとして、仕事をしているのだから感謝しなさい。このくらいの仕事はまだできる。口先だけで病気のことを言うな、一晩寝れば治る」などなど、たくさんの言い分と、私の農作業の取り組み対しての不満がほとんどで、私の心配をよそに自分の病状の進行に対しての自覚はあまり無かったようです。

この頃から私の口癖が、このままだと車椅子の生活になるので農作業をやめるように言うと、母の言い分は「体が動かなくなってから、そんなことを言え、口先だけの心配はいらん、体が動くうちから邪魔者扱いをするな」です。

普段から家の中の仕事は苦手にしていた母ですから、家族から外に出るなと言われたことが悔しくて、私の目を盗んでは、庭先の草取りを行なって、対価として足腰の痛みにみまわれ、自分の体のことを考えて行動するようにと諭すのが、私の唯一、かけることのできる言葉になりました。

これ以外の言葉で、接すると必ず、口喧嘩となり、親子でも距離をおきたくなる言葉で返されたのでした。この頃病状を心配した親族が、集まり、このままだと悪化するので、農作業には手を出さず、見守るようにと毎月尋ねてきて母に注意を促しますが、皆が帰ると「農業に関係無い生活だから、そんなことを言えるのだ」「私が手伝わなくては、何も出来ない」「おまえに任せておけん」が母の言い癖となりました。いくら、母の機嫌をそこねないように注意しても、返ってくる言葉は「なってみなくては、わからん。人を脅すようなことばかり言うな。そうやって親を馬鹿にするな、そんなことを言うおまえにも罰が当たる」です。

中々の名言を私に返してきます。そんなことを半年あまり重ねるうちに、病状は見る見る進み、母の活動範囲は狭まって行きました。

『突然の腹痛に襲われる母』

我慢

異変、三年ほど前、いつも歩いて近くのスーパーまで買い物に行き、途中で友人の家により、お茶を楽しんで帰ってくるのが日課となっていた母が、病状に変化が現れたのか、買い物の帰り道、途中で歩くことができなくなり、やっとの思いで帰宅したことを夕食時に私に話した時の「今日は足が痛い」の言葉が始まりで、翌日、近くの病院の整形外科を受診して、足と膝の痛みを確認したところ、母の受診時の問診で、正確に医師に伝えなかったために、足と膝の痛みは、骨粗鬆症からくるものと間違われたようです。当初は、心臓が弱くなっているとか、足腰の衰え等々、色々な理由を付けて、湿布薬を痛みのひどい部位に貼付けて、痛みを和らげると、症状が治まっていたので私は軽く見ていました。この頃服用していた薬の量が多いことによる母の体に変調が表れ、一番驚いたのはトイレの汚れの盛り上がりでした。

トイレ掃除をしていた私は、その汚れが骨粗鬆症の治療薬の影響からのカルシュームの蓄積による汚れである事が分かりました。それと、昔ながらの生活習慣などが原因と思われました。病状の進行から庭先でようを足す事があり、驚いた事にようを足した跡の芝生が枯れてしまった事で、薬による薬害で痛みが発生したのかもしれないと、通院先の病院の内科医に相談したところ、確かに薬の量が多いので減らしましょうと言うことになり、薬の量を減らしたところ、母の食欲が戻り始め、体調が整い始めましたが、腰痛はいっこうに治まる気配が見えません。

 この頃、母の体調の変化にもう一つの心配事が、母は、私に相談できずに1人で悩み続け、高血圧と骨粗鬆症の治療を受け持っている内科の先生に相談したところ、担当医の先生の配慮で、母が通院するこちらの病院には産婦人科はないので、甲府市にある病院を紹介していただきました。ここでやっと、母は、私にその症状を打ち明け、病院まで付き添ってくれるようにと言いました。私は、全くと言っていいほど、婦人病のことは、知りませんでしたので、紹介された病院に電話を入れ、母の症状について、産婦人科へ、電話で対応していただいた職員に尋ねると、婦人独特の体の仕組みによる物で、多数の症例があり、病状を改善する方法と、年齢により必要なくなる物であるので、安全を考える場合には切除の方法があることを教えていただきました。安心して、産婦人科を受診され、適切な治療を受けてくださいとの説明を受けて、母に安心して、診察を受けるように説得をいたしました。

母は、1人で、かなりの長期間、誰にも相談できずに、悩み苦しんでいたようです。私が、電話でのやり取りを説明すると、安心したのか、その晩は、静かに休み、紹介状を大切にながめていました。指定日には、前もって電話で相談してあったので安心して受診することができました。産婦人科での治療が一定期間をおいて、定期的に消毒をするだけで良いことが分かったのは、受診してから半年後のことでした。(ご婦人方は詳しくはこちらで確認してください

ウーマンズヘルスのページより
http://jfpa.info/wh/kanja_gaku/sikyu_kasui.html

大切な器官なので、適正な治療を行なわないと、生命にも危険があります。

治療後の身体管理

「母の大失敗」(私の過信)

体の中に治療器具が入っている母は、今までの心配事から解放され、普段は快適にすごしていたようですが、排便が不規則になり、便秘がちになり通院時に相談したところ、下剤を処方され不規則になっていた排便もスムースになりましたが、排便量まで確認していなかったために、強力な便秘状態になり、処方されていた下剤では効き目が余りなく、少量の排便になっていました。

私は、近くの病院で治療をするように母を諭しましたが「3日後に産婦人科の定期検診があるのでその時で良い」と言います。この時、母のトイレについて行くべきでした。後で分かったのですが、少量の排便があったと母は、言っていましたがほとんど排便はなく、病院に行った時に処理してもらえば良いなどと軽く考えていたようです。通院当日の車の中で母は突然腹痛を訴え苦しみだし、意識障害が出るほどの腹痛に襲われやっとの思いで病院に到着。

直ちに検査を行ない、原因を究明し、処置を行なっていただきました。

『「腸閉塞」一歩前です』ご自宅で何をなさっていたのですか、もう少しで危篤状態手になるところでしたよ、説明しますからこちらにどうぞと言われ母の居るトイレの中に、長い時間看護士さんから注意を受けました。

後で分かったことですが、どうも、私が母をほったらかして、母の話を聞かず放っておいたように見えたようです。こちらの病院にも時々、母親を虐待し、このような症状になってから入院なされた方があり、それらを含めて私に対して、もっと母に注意を配るようにと、厳重なる看護士さんからのアドバイスでした。

このことがあってから、母の病状によりいっそう注意を配るようになりました。

自宅で、便秘になったならばと、下剤を処方していただきました。症状に合わせて薬の量を調整できるタイプの物を出していただきました。『できるだけ自身で排便できる環境を整えてください、薬を頼りにしてはいけません』のアドバイス。排便が楽にできるようにと、特に、食事には注意を配り、できるだけ食物繊維の多い食事をと考えて、母の好物である「カボチャ」を食卓からできるだけ切らさぬようにするとともに、味付けなどを工夫して飽きのこないカボチャ料理をと考えました。食物繊維の多い食事にしたことで母の排便は楽になり、便秘症状も軽くなり、下剤を使う回数も減って行きました。

(甲府の共立病院の皆様ありがとうございました)

今まで、母が食事の支度を整えていましたが、2006年の秋頃から食事の支度をするのも辛いと訴えるようになり、元来、料理が苦手な母でしたから、母に変わり、この頃から私が食事の支度をする機会が増えて行きました。

足腰の痛みは、無くなったわけではなく、徐々に増えているようです。

通院していた病院のシステムが代わり、山梨医大との提携で医師の派遣が始まり、診察科目も増え、診察内容が充実してまいりました。病院の医師が変わっても、母の相談の仕方が悪かったのか、症状の捉え方は、前回と同じ治療方法となりましたが、この頃から母の痛みの捉え方が違ってまいりました。今までは、湿布薬を貼れば少しは症状の改善がありましたがだんだん湿布薬も効き目が薄れると同時に、生活行動半径は狭まり、家の周りでの生活が主体になって行きました。母はやっとこの頃から整形外科を受診するようになり、腰痛と膝の痛みに対しての本格的な治療が開始されました。しかし、母の症状の説明が膝と下肢の痛みについてのみの訴えだったので、MRIやCTの検査ではなく、幹部の局所のX線撮影による診断となり、原因究明にはいたらず、しばらくは血流を促進させる治療が行なわれ、症状の改善が見られたので、治療方針が血流の安定を図る薬物治療になりました。この頃母の言葉は『点滴をすると痛みが消えて楽になる』が口癖となっていました。しかし、原因は他にありました。

下肢の痛みを訴えるたびに、点滴治療を要望するようになり、治療を続けましたが、痛みが無くなると自由に動けるので、私の心配をよそに、私が居ないときを見計らい、好き勝手に行動したために症状が悪化する事につながって行ったようです。        ( つづく )

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